あるラジオ.アマチュアの記録(書籍紹介)
岡本次雄著「アマチュアのラジオ技術史より」第9章 あるラジオ.アマチュアの記録,をご紹介します.全13ページ
本書の原本は国立・国会図書館(デジタル)にて閲覧することができます.
第 9 章 あるラジオ.アマチュアの記録
(1930年)
ここに示すのは「無線と実験」1931年( 昭和6 年)6 月号に掲載されたもので,題名は「ラヂオを作る話」となっている.
これは1930年頃のラジオ.アマチュアの姿と東京市内のラジオ商のようすをみごとに描いてあり,後世に残る記録であると信ずる.
筆者は赤木杢平氏となっているが,もちろん匿名で, 相当な大家であると思われる,が今となっては調査するすべもない.
そう入の漫画も同氏の作であるが, メーカーおよびラジオ商の広告写真は著者がそう入したものである.
ラヂオを作る話
(1)
ラヂオを急に他所へ持つて行かれた.
昭和5 年の都市対抗野球戦の初日の午頃だ.
今迄置い てあつた床の間が急にガランと物寂しくなつた.
楽しみにして居た野球の中継放送だ.何としても聞き度い.
学校が夏休みで所在のないター公 は「一つ買つたらどう? あつたものが無くなっ たつて淋しいもんだわ」と言ふ.
急いで買つて後で後悔するのも嫌だし,と言つて何の予備知識もなくラヂオ屋を探して歩いてる中には野球は済んで了ふ.
仕方がないから当座の間に合せに街のラヂオ屋さんから野球の間だけ機械を借りた.
「この機械はお貸しするので, まあ修繕の間代りに差上ると言つた極く粗末なものですが, 如 何 様なものでも組立てますから是非一つ… 」ラヂオ屋の主人が鼻の頭の汗を拭き拭き口上を言ふ.
五十そこそこの片眼のすがんだ見るからに慾の深さうな親爺だ.
「ラヂオ修繕専門」と染抜いた赤い旗を立てた古びた薄汚いその店が余の頭に浮んだ.
どうしてもその店から機械を買ふ気になれない.
「まあその中古物でもいいから安いのがあつたらね」余の財布は貧しかつた.
「と申しますとおいくら位で」親爺は 直 ぐ付いて来る.
「まあ三十円位迄だらうな」親爺はニヤリと笑った.
翌々日, 余は猿又一つで籐椅子に寝ころび乍ら借物のラヂオで野球放送を聴いてゐた.
突然そこヘラヂオ屋の親爺が得々とラヂオを担いでやつて来た.
不性無性余 は蓋をあけて見る.
勿論内 容は判らない.今考へると多分鉱石検波二〇一の整流球共三球のエリミネーターだったらうと思ふ.
小さな子供だましの様なスピーカーをつけて二十七円迄にと言ふ.
親爺大急ぎで組立てきたらしい.
「わたしや雑音が嫌いでして」とか「この頃の受信機はみんな体裁ばかりで」とか, 手前味噌を上げてゐる.成程ハムはなかつた様だ.
然しどうしてもこれを買ふ気になれなかつた.
余は再び薄汚いホコリだらけの箱 許 り並んで居る店を頭に描いた.
余は「嫌だ」と言ひ 度 かつた.
ラヂオを借りたのは相当の損料を払つて借りるのだ.
その上無理に機械を買はねばならぬ義務はない.
気の弱い余はさう言ふ代りに「まあ考へるから置いて行って呉れ給へ」と言つてしまつた.
裸の体中から汗が出た気の弱い余は買はなくては悪いだらうと言ふ考へと別に,これと頼んだのでもなに構うものかと言ふ考へで一日考へ通した.
到頭決心して翌晩余は重いラヂオを持つて親爺の店へ行つた.
丸三日間の借料をと言つたら, 片眼をすがめた親爺は「普通だと一日二円宛頂くのですが特別皆で五円程にしときませうか」と言つて, 注文品を返された程の不愛想さに苦い顔をした.
五円札を一枚出して余は解放された気持だつた.
財布は完全に空になつた.
それから余のラヂオ道楽が始まつて少からぬ財をアチコチのラヂオ商君に奉納したが, この店からはネジ1 本買はない.
いつもこの店の前を通る時唾をしてやつてゐる.
(2)
必要が研究心を生む, 癩 にさはるから一つ組立ててやらうかと言ふ考へが余を本屋へ走らせた.
探し出して一冊参考書を買つた.
電池式だと電池がうるさい.
エリミネーターにしやうと大体の方針が立つ.
この参考書にはエリミネーターの例が三つ出て居る.
第一は実用向とかで二二七, 二二六の低周波二段のレフレックスと言ふ奴だが, その後で出て来るのを見た後では何となく物足りない.
ラヂオには全然素人な余も人並にどうせ作るならいいものが欲しい.
第二, 第三の物は同じく二二七を使つたものだが, 部分品を計算して見ると六十円程掛る.
余は憂うつになつた.
六十円の部分品を集めてさて組立てたが聴えないなんと来たら, 余に取つて問題が大きすぎる.
手当り次第に買つて来たラヂオの雑誌を読で見ると失敗談が沢山ある.
余は小々組立る事が不安になつた.
「出来てるのを買つたらいいぢやないの」余のにはかラヂオ屋を全然信用しないター公は 専 ら既製品の安全さを説く.
余もその気になつて残暑の残る夕, ター公をお伴にしてラヂオ探しに出かけた.
臨時に入つた 少許 り 纏 たお金を大切に 懐 で握つた.
ラヂオ雑誌の広告欄をたどつて 先 づ訪れたのが新橋駅から歩いて六畑無線研究所.( 三田無線研究所)
買ふ気はない唯見るだけだ.そんな不心得者と知るや? 店員氏は親切に種々見せて呉れる.
何でも二二七, 二二六, 二二六でケースは金属, 今を流行のワンダイヤル型で四十五円とかだった.
型録だけ忘れずに 貰 つて出る.
桜田本郷町( 著者注, 今の田村町) で飛行会館 の高い建物を見上げながら電車を待つてゐる鼻 の先へ,円タクをヌツと突きつけて 如何 です と言ふ者がある.片手の指を開いてこれで行く かと言つたら行くと言ふ.( 著者注,50 銭) 行 先は本郷赤門前だ久し振りで来て見ると,こん なだつたかと思はれる程本郷通は野暮臭く街の灯が暗い.漸く探し当てた黒門ラヂオ商会( 著者注, 赤門ラヂオ商会の変名) へ罷り入る.用向 きを話すと小僧氏がこちらへと言ふ.従つて行くと店の奥に連る倉だ.
コンクリートの階段を上るとゴタゴタした所で二人程受信機の修繕をしてゐる.
小僧君早速試聴させてくれる.倉の二階だからとても暑い.ター公を見るとオカツパの額に汗がにぢんでゐる.
外へ出て人波にもまれ乍ら飲物屋に飛込み冷たいものを飲んで, もう一軒下谷に 廉 い広告の所があつたから行つて呉れるかと,ター公に 伺 ひを立てると「ウン行く」と言ふ.
電車を広小路で降りてグロテスクな感じのする高架線の下を抜けて車坂辺で三, 四回人に尋ねた揚句漸く判つた.
山商会( 著者注, 島商店の変名) とか言ふ店だ.ここは部分品が主で組立てた受信器はあまりない様だつた.試に余が計算して六十円位になつたものを 幾何位 で組立て呉れるかと訊ねたら, 二十五円位でやりませうと言ふ.
余り廉く出られたのと未だ若い主人の態度が気に入つたので, 後から配線図を郵便でお送りするか, 自分で持つて来るから頼むと言つた.気の弱い余はこの約束を果さなかつた事を其後長く苦にした.
帰りの省線電車 の中でター公 から「どれにする」と訊かれて返 事に迷つた.
翌晩は神田のコンドル屋(著者注,田辺商店の変名)を襲つて見た.
決して悪い感じのしない小店員君が,店頭で大声でがナつてゐた蓄音機を止めてコンドルの説明をして呉れる.
非常に充分過ぎる程の音量で, 松内〔則三〕君( 著者注, かつての名アナウンサー) の水泳の実況放送だ.
ター公は受信器なんぞに興味がない. 唯聞 けばいいのだ.
浮かぬ顔をしてゐる.早く銀座へ行つて, チョコレートサンデーが喰べたいんだらう.
小店員君にはコンドルに充分な未練気のある様に見せかけ,及び後程買ひに来る様な素振りで店を出る.
銀座だ.都会子のター公にとっては百のラヂオ屋さんより銀座のペーブメントがどんなにか嬉しいらしく, 赤ん坊の位な大きさの小間しやくれたハイヒールの音をコツコツさせながら,不二屋の二階へ駈け上がって行つた.
✕
其後大森を散歩した時, 或る小さなラヂオ屋の店先にあつた受信器の外観に心を引かれ其場で買つて 了しま つた.
フラウワーヴォックスのマグネチックコーンとアンテナ線百尺つけて四十円だつた.高いか廉いか知らない.
余は満足だつた.
(3)
種々な雑誌を見てると短波長の事が出 てゐる.発信などと言ふ大それた事は出 来さうもないが受信器ならば出来さうだ.
雑誌には雪のハヴロフスクの音楽を紅茶をすすり乍ら聞くなんぞと書いてある.余 の興味は極度にそそり立てられた.
第一にあの太い裸銅線のコイルが嬉しい.風通しのよさそうなコイルを作つて得々と…… などと悪口の記事もあつたが, どうも 蜘 蛛 の巣コイルでは幅がきかない.
エボナイトの直線の中にあのシットリと薄光りする銅線の円が幾層も並んだ美しさはどうだ!
よろしく始終眺められる様に箱には入れない.
余は早速コイルの製作にとりかかつた.
材料の銅線だが十二番(著者注,約)なんと言ふ太い銅線は,そこらの金物屋に 一寸 ない.
漸 く人に教はつて神田駅近くの金物問屋まで押しかけて分けて貰つた.軟銅にする為にガス七輪で焼く.
九月上旬のガスは暑い.裸の身体の汗を 拭 き 乍 ら焼き終つて後磨くのはター公に一任する.
アルコホルの空瓶に巻きつけて 螺旋 が出来た.
エボナイトの細い板に孔を沢山あけてこれを通さなくてはならない.
この孔が始め少し小さかつたので中々銅線がくぐつて呉れず, 手の中が豆だらけになつた.
無理をすれば 折角 のコイルの型が壊れる.余は泣きたくなつた.
近所の電気屋さんに行つて孔を大きく直して貰つてどうにかこうにかコイルが出来上る. 愈々組 立だ.
トランスはテストラン一○ 号と言ふ, 鯰の頭を思はせる様な頗る振はない外観の 代物 .
バリコンは「無線と実験」代理部のラックス,何れも 御直々 の店まで行つて買つて来たものだ.
始めての事で不案内だが, 写真や何にかを参考にして 先 づ部分品の配置だ.
落付いて落付いてと吾心を 臍下 に 納 め, 朝日〔たばこの名称〕をゆつくり 喫 みながら徐にコイルを置きトランスを並べる.
配線は短かい程よいとある.
✕
ター公が病気になつて寝て了つた.
一人で寝てると退屈なもんで「ラヂオなんかお止めなさいよう」と言ふ.
ター公が 可愛 さうだからなるべく枕元に居てやる.
「何かお話してよう」とせがむ.
余はチョークコイルを捲きながら「学生生活の挿話―― 如 何 にして酔払へる僕は汽車を止めたか」を話さねばならなかつた.
ハンダ付に弱つた.
コテを焼てハンダに当るとポロリポロリ玉になつてハンダは皆畳の上に散らばつて 了 ふ.
幾度やつても駄目だ.
到頭 冑 を脱いでブリキ屋の小僧に秘伝を伝授して貰う.
それでどうにか付くには付くが至る所ハンダの 瘤 だらけだ.
恐ろしく複雑な配線が出来上つた.
まるで建築中のビルディングの様だ.
その中から二〇一A が二つチョコンと頭を出してゐる.とも角組立は竣工した.
借物の電池を結び二〇一A を点火して見る.
嬉しくも明るくなるではないか.レオスタットも二つ乍らきく.
これも借物の受話器を頭に上げてコイルのクリップの位置を動かして見る.
果して何の音もしない. 敢 て,「果して」と言ふ.
聞こえないのが当り前の気がした.
それから数日間それでも毎夜いぢくり回した.
配線を代へて見たり, コイルの位置を動かしたり, バリコンの枚数を減らして見たが一向に何も聞こえぬ.
部分品を買つたラヂオ屋の主人が「短波長は難しいもんですよ」と言つたがほんとうだと思ふ.
余は完全に短波長に見限りをつけた.
機械は棚の上に放り上げられて 埃 で白くなつた.
機械的の構成美を発揮する筈だったコイルには蛛蜘が巣を張つた.
今考へると哀れにも滑稽な事ではある.
何も知らない余はメグオームを一万オームと解していたのだ.
それでも多小不安だつたので近所の電機学校の生徒君に訊ねたら「さうだ」と言つたものだ.
グリッドリークはなるべく可変がいゝと言はれて,得々と一万オームのレオスタットを入れたのだ.
ター公は短波長など, どうならうと意に介しない.
毎日オカッパを朝風になびかせてお弁当の食パンを抱へて学校に行き, 帰つて来るとチョコレートをなめる事を唯一つの楽しみにしてゐる.
(4)
銀座を歩くといゝ音のするラヂオが 鳴つてゐる.
太いシットリした声だ. どうも家のラヂオと違ふ.
雑誌を見る 程に本を読む程にどうも家のラヂオが 物足らなくなつて来た.
神戸で観艦式 が行はれた時〔大阪放送局〕 の中継を聴いてゐると, アナウンサー が「やがてインイン〔殷々〕たる砲声 がマイクロフォンを通して皆様の御耳 に…… 」と言つてゐるが待てど待てど 聞こえなかつた.
余は機械の蓋をあけ てゆつくり点検して見た.
鉱石検波で 低周波二段, これにおこがましくも高 周波が一段つけてある.
球は皆二〇一 A だ.
買価の四十円からフラワーボックスを十二円としてもこのセットだけ で三十二円だ.
部分品は皆安物が使つてある.余はパネル面を拳固で一つコツンとやつた.
ラヂオ屋の親爺の頭の代りである.余はいゝ器械がしみじみ欲しくなつた.
それと一緒にダイナミックと言ふあの巨人ぶつた低音の出るスピーカーが欲しくて堪らなくなつて来た.
余は 明暮 れ紙の上に二四五の配線図を数限りなく写しては描いた.
余が友達ドクトル竹庵先生は余に向つて,「君は頭の中ぢやもう大分 沢山 のラヂオをこしらへたらうな」とぬかし 居 つた.
×
虎の子のスピーカーが時々ピリつき出した.
尺八などの時特にさうだ.有り余る金で買つたのでないだけに余は少々淋かつた.
秋の風の吹く日, 余は製造元南欧会社( 七欧商会) へ出かけて診察して貰つた.
二四五のプッシュプルとかの増幅器にかけて恐ろしく大きな音をさせた上, 店員氏は「どうもありません」と言ふ.
成程どうもないらしい.
この器機にかけてすらビリ付かないのだから, ビリ付くのなら御宅の機械が悪いのでせうと言ふ.
せめて二二七,二二六をお使いにならなければね.
「 愈々作 るか」余は叔母に預けて置いた大切な金を皆引出して来た.トランス広告
後はどうにでもなれ,余は歯を食ひしばつて部分品買ひに出か けた.
と言つても余の財布ではダイナミッ クを買つたらそれで無くなつて 了 ふ.
欲し いけれ共仕方がない.
淋しい諦めだ.マグ ネチックを使つてその代り最終に一七一A を入れて我慢しやう.
先 づ電源トランスだ が何がいゝだらう.
余は何よりも電気試験 所の放送局の相談所へ相談に行つた.
認定 品の中には余の求める二〇〇V を出すものはない.
二〇〇V 出すものでは徳久のNo40より他はない.
同じ構内の売店で訊ねて見ると四円五十銭と言ふ事だつた.
直 ぐとは買ひ兼ねた.
表へ出ると泣き出しさうだつた空は本降りになつて, 邦楽座の前で自動車から降りた貴婦人がフェルトの 草履 を爪先立てゝ居た.
少し疲れたが勇を鼓して雨の中を某デパートのラヂオ部へ行つて見る.
徳久のNo40を見付けて値段を訊ねると五円五十銭と言ふ.余は呆れて退却した.
翌日陰惨な天気の中を溜池の徳久の工場へ出かけた.
受付の事務員氏が持出して呉れた中から一つ選んで買ふ.No40 にフューズをつけたのはここにもなかつた.
重いトランスの包を下げて出かけたついでに神田の福長商会(富久商会)へ廻る.
この店は以前何か部分品を買つた時大変廉かつたので覚えてゐた.
親切と不親切の間位を行く店員氏のぶつきら棒さも余にはかへつて買ひよかつた.
チョーク, バイパス, ソケットと言つた様な細々したものを買ふ.
低周波トランスはテストランのスペシャルで我慢することにしてコンドル屋に廻り二個買つた.
少し負けて 呉く れんかと小店員君に頼んだら,主人であらう所の紳士に 伺 ひを立てゝからよろしう御座いますと言ふ.
余は嬉しく店を出た.
財布は軽くなって 了 つた.
家へ帰つて一々包紙を解いて並べて, さてゆつくり煙草を吸ひ 乍 ら眺めると 何とも言へない愉快さが腹の底から込 み上げて来る.
余はその晩この品々を 枕元にならべて寝た.
部分品は揃つた.今度は箱を買はな ければならない.
翌日余り遠くない品 川の卸問屋へ行つて見たら割合気に入 つた型のがあつた.冨久商会広告
送つて呉れないか と言つたら手不足でと断られたから止 む得ず 提さ げて帰つた.
晩に早速底板の 上へ部分品を並べて見る.
頭の中で何 遍も組立て笑はれただけに配置はちや んと頭の中に描れてゐた.
ネジ止めし てさて一服して眺めると我ながら整然とした美しさだ.
愈々配 線となると前に短波長セットで失敗してゐるだけに少からず不安だ.
だが今度は短波長とは違ふから蚊の鳴く位な音位はするだらう.
ハムとやらは定めし多い事だらう.
余は心細いながらも配線図とにらめつこをしながら工事を進めた.
フィラメント回路は底板の裏へ廻し他はなるべく上で配線した.
ハンドドリルの手が滑つて指に裂傷が出来た.
ハンダゴデに触つて火傷もした.
惨憺たる光景の中にとも角余が愛児―― 二二七検波, 二二六, 一七一A 低周波二段,容量再生式受信機は出来上つた.
最後にグリッドリークとプレート抵抗を余は 大崎の日本無線本社へ行つて買つて来た.
市価 より遥かに 廉 く分けて 呉 れた.
愈々 テストだ.未だ箱に格納しないままのジ ャックにスピーカーをつなぎ,二二七を抜いて置 いてスヰッチを入れた.
瞬間余は眼をつむつて「南無阿弥陀仏」と唱へた.
……見ると球は 悉 なく点火して,受信器に耳を近けるとかすかに サーと音がしている.
余は少し安心した.セッ トを箱に格納する.アース,アンテナ,皆つなぎ準備は出来た.
スヰッチを入れる.かなり長い不安の時を経てブーンとスピーカーが鳴り出した.
ダイヤルを廻すと嬉くも人の声だ.
今迄の受信器に聞く声とは似もつかぬ含らみのある太い人間臭い声だ.
日暮れ時の経済市況に余は 欣然聴 入つた.
(5)
自分で手を傷めて作つた受信器の音は一種特 別な味がある.
余は藤椅子に寝ころんでしみじ みと味はつた.
新設の岡山放送局から陸軍大演 習の実況が中継された.
今度は大砲の音が聞え た.余は大砲の音に復讐した様な気がした.
人間は次々と慾が出る.
余はこの器械で短波長を聴く事を思ひ立つた.
コイルさへ変へれば出来さうだ.
余の器械はコイルにラックスの一三三と言ふプラグイン式を使つたから, 二二七のソケットにはめる様になつてゐる.
換 へるとすれば二二七の古ベースを使はなければならぬ.
余は方々のラヂオ屋を二二七の廃物を探して歩いた. 何 処こ にもない.
癩 にさはつたから総本家の川崎の東京電気会社に出かけた.
やかましい門衛や 厳 めしい玄関に似ず営業課とやらの社員の人は親切で, 古ベース二個 何 処 からか探し出して 呉 れた.厚く礼を述べて貰つて来た.
巻回数が分らないから古べースに大体の見当で二四絹巻線を巻いてやつて見たが何も入らない.いろいろ回路を変へてもうまく行かない.
ふと或る雑誌にあつた記事に従つてスパイダーを使つてやつて見た.
盛んにビートが起る.気まぐれにダイヤルをいぢつて居る中に突然独唱が入つて来た.
フェーディングが甚だしいので始終ダイアルを気をつけなくてはならない.
二晩, 三晩聴いてゐる中にハヴァロフスクだと言ふ事が判つた.
スピーカーを通して実に堂々とした音量で入つて来る.
或晩は劇場からの中継らしくアンコールの嵐の様な拍手が聞こえた.
某氏はこのハヴァロフスクをやはり二二七の受 信器で受け, 二二七, 二四五のパワー.アンプリ ファイヤーでダイナミックにかけて毎夜楽しんで ゐると書かれた.
余もしみじみダイナミックが欲 しくなつた.
ラヂオ商の叔父を持たなかつた事を 真実後悔した.
「あたしが買つてあげませうか」と ター公が言ふ.
それがベラ棒に高いものだと聞い て
「ぢや駄目だわ.あたしの貯めたお金五円きり ないのよ」
とター公も淋しく笑つた.
昨年の暮不要になつた二〇一Aの家へ譲り,その金でピックアップの安物を買つた.
コロムビア位な音だ.
ター公はお小遣の内から松内レコードを買つて来て掛けて喜んでゐる.
ラヂオ雑誌に自作セットの記事を発表したら方々から質間が来た.
余は半年の間に 一廉 のラヂオ通になつた
久しく棚の上で埃まみれになつてゐた思出の短波セットの部分品を利用して, 余は今.G 球を使つた短波セットの組立中である.( 三月雛の節句に稿)
両国とお茶の水の間に国電が開通したのもこの頃であった.工事中の秋葉原付近である.
春風秋雨,今では文中のラジオ商も或は廃業し,或は移転してしまっている.
当時, 今いうところのジャンク屋は東京にわずかしかなかった.秋葉原駅東口にあった店は高級品専門で官庁の払下品が多かった.他に荒川区の三河島に数軒と牛込の柳町,小石川の柳町,本所の柳島にそれぞれ1 軒ずつあった.
一方, 第2 章で述べたように, ラジオセットは放送開始当時, 芝浦製作所, 東京電気, 安中電機, 沖電気等比較的大会社により生産された.しかし, 当時は需用も少なく大資本による経営には適しなかったので, 各杜はことごとく生産を中止し,家内工業的生産者のみが残っていたのであった,
しかるに聴取者の増加とともに,1931 年( 昭和6 年) 頃から再び資本的多量生産の時代に入
これまではアマチュアもラジオ商もラジオは自分で組立てるのが当然とされていたが,この頃より少なくもラジオ商での自作は特殊のケースのみとなったのであった.
「無線と実験」1930 年( 昭和5年)10 月号に第137 図に示すようなシャープの広告が掲載された.このセットは外箱まですべて金属製で,「鉄函受信機」といわれたものである.
また,1931 年( 昭和6 年)4 月6 日, 東京第二放送が開始され,始めてローカル局の分離が問題となった.
第138 図は「無線と実験」1932 年( 昭和7 年)3 月号に掲載されたナショナルの広告であるが,二重放送聴取完全” といっているのはこのためなのである.
このような鉄函時代をすぎてから, わが国のラジオセットは急速度で進歩して行ったのは,何といっても真空管のめざましい発達に負うものが大きいといわなければならない.
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